乙樽母子の苦難

沖縄ツアーなどで多くの観光客が訪れる人気の史跡、今帰仁城跡。


ここには伝説の美女とうたわれた、志慶真乙樽という女性の詩が残されています。


乙樽はとても不幸な女性でした。


その美貌のために王の側室となり、老年の王のために念願の子を産みますが王は逝去。


しかも若按司(乙樽の子ども・若い王子の意)のタンカー祝(生後一年目の祝)の晩に、城内にクーデターが起りました。


家臣の本部大主というものが、若按司を殺して王位につこうとしたのでした。


しかし、忠臣謝名大・王があやうく若按司を守って、乙樽とともに城外にのがれました。


二人は城の裏手の「クバの御嶽」の岩穴で一夜を明かしましたが、そこは危険だったので、日中はそこにかくれていて、夜とともにまたそこを抜け出しました。


二人は相談して、若按司を領内でもっとも遠い山田部落の大主(首長)にあずけることにしました。


そして、乙樽は世に稀な美人で目立ち、すぐ追っ手にかぎつけられますから、若按司とは別れることになりました。


若按司は後日必ず本部大主をたおして王位を継がなければならない大事な御身ですから、と謝名大主に説得されて、乙樽は泣く泣く愛児と別れなければならなかったのです。


しかし、それでも若按司をすぐ手放すことはできず、夜道を二里ほど歩いて、いまでも「別れ川(わかりがー)」といわれている泉のところで、最後の別れをしたといわれています。

キャリアウーマンの先駆け

今日はキャリアウーマンの先駆けともいえる、ある女性の話です。


彼女は労働省で働き、炭鉱離職者の再就職促進や、開発途上国援助の一環として、新しい職業訓練を事業化することになりました。


とくに「開発途上国の人材養成」では、これまでの職業訓練所も知っており、英会話もできるということで彼女が注目され、「やらないか」との話が来ました。


「公衆衛生」の夢からはそれることになりますが、「困っている人たちのための、国際的な仕事」であり、彼女はそれを受けたのです。


結果的にこれが、大きな転機となりました。


以来、20年近く、途中で2年ほど国際労働課で「先進諸国との関係業務」を担当したのを除けば、一貫して「開発途上国との協力業務」に専念し、海外技術協力室長にまで昇進します。


係長当時に、労働省で初めてという「女性の海外出張」を実現したのを皮切りに、世界各国の政府・訓練関係者にも多くの知己を得ました。


そうした実績が評価されて、畑違いながら今回の「国連公使への抜てき」となったのでしょう。


2度目の転機、それも外務省への転籍という大きな転機ですが、彼女はこの新しい仕事にも意欲を燃やしています。


国連公使である彼女の公式の送別会は、千葉市幕張に先年開所したばかりのOVTA(海外職業訓練協会)の研修センターで、盛大に行われました。


地理的には、都心のホテルなどにくらべて不便ですが、海外技術協力室長としての彼女が、本当に全力を投入することで発足できたOVTAこそ、彼女の転機を記念し、送別の宴を持つにふさわしい場と思われたのです。


派遣 千葉で働く女性たちの見本となるような素晴らしい女性ですね。

黄金の世代 7

1842年、子供達の将来に気をもむ親のために「両親のためのハンドブック」が出版されました。


この本の中でJ・C・ハドソンはこう言っています。


人口の増加問題に関して様々な意暴あろうとも、現在の窮乏状態は、下層階級の人々同様、中産階級の人々にとっても深刻な問題となっていることに関し、議論の余地はない。


初期に移住して来た上流階級の農場讐者がそうであった様に、専門的資格を持ちながら仕事にありつけない人々は、社会的地位を失墜させる危機に直面していました。


オーストラリア経済は発展を遂げ、こうした人々に苦境から逃れる手段を提供しました。


この頃移住した失業中の専門家の中でも、ダブリンのトリニティカレッジ出身のイングランド系アイルランド人の弁護士達は、忘れてはならない存在です。


アイルランドの法曹組繋改革されたことも手伝い、彼らはアイルランドで生活することができなくなりました。


ジョージ・ヒギンボサムを初めとする人々は、後にビクトリア裁判所で大活躍をすることとなります。


黄金の世代 6

バックハウスは、もともとイングランド人の石工でジーロンでは建築家として身をたて、後にブリスベン、シドニーへと居を変えました。


彼はニューサウスウェールズ建築家協会設立の為に助力を惜しまず、後年ニューサウスウェールズ立法委員会に加わりました。


チェルシーで生地屋を営んでいたグラハム・ベリーは、1852年、30才の時に渡豪し、南ヤラで食料品店を始めました。


この様な人々は、将来に対して不安を抱いていた独身の若者達であったと思われます。


デビッド・サイムは、専門の研究だけに従事していたのでは食べていけない状態にありました。


彼はまず最初にカリフォルニアの金産地へと渡り、その後スコットランドを経てオーストラリアへやって来ました。


そして、ビクトリアの採鉱地で3年間を過ごし、しばらくの間働いた後、新聞「エイジ」紙の発行者、編集者としてのライフワークに取り組むこととなりました。


19世紀全般を通じ、英国社会にはいつも「失業」に対する不安がつきまとっていました。


中産階級に属す専門家、下層階級の大半の人々にとって、1840年代はただただ絶望の時代だったのです。

黄金の世代 5

金鉱発見当初、社会は分裂の危機にさらされていましたが、次第に落ち着きを取り戻し、宗教活動も盛んとなりました。


1861年までにはビクトリア人口全体の4分の1、成人人口の3分の1以上にあたる人々が定期的に教会に通う様になっていました。


こうした傾向の恩恵を最も強く受けたのは福音主義派、とりわけ1人1入の救いに力を入れた長老派教会でした。


労働者階級の移民は依然、かなりの人数に上っていましたが、新しい移民の中にはこれまでにはない階級の人々がいることに、いちはやく気づいた人々がいたのです。


より高い教育を受け、恐らく絶望に打ちひしがれ、金だけが与えてくれる強力な魔力を必要とする階級の人々が、初めて故国の狭さ、貧弱さに気づき始めている。


社会の中間層は揺らいでいる・・・。


この様な移民は、仕事面でのうまみに惹かれていました。


その多くは、金を掘る為に移住したわけではなく、拡張を続ける社会に物やサービスを提供することで利益を上げようとやって来ていました。


こうした人々の中には、ベンジャミン・バックハウスの様に商売に長けた人々がいました。

黄金の世代 4

採金鉱夫の多くは、熟達した腕を持っていました。


伝えられるところによると、このためにダービーシャーの村々はさびれ、鉛鉱業はほとんど壊滅状態に陥っていました。


この他、コーンウォールやサマーセットからも鉱夫達がやって来た。その中には、当時をさかのぼる激動の10年間に形成された価値観を持った鉱夫もいました。


金の産地においても、英国チャーチスト運動で定義された民主主義や、労働者の権利に関する演説が行われました。


アイルランド人鉱夫は、英国の圧政そして不当と思われる法律に抵抗する伝統を持ち続けました。


こうした影響は、不安定な社会を作る一因となり、オーストラリア政府が金の採掘を免許制に切り替える原因ともなりました。


不安材料は短期聞のうちに高まりを見せ、1854年12月には、不成功に終わったものの、ユレカ砦で暴動事件をおこす引き金となっていました。


しかし一般の人々の関心は、新参移民の社会的地位の高さに集中し、鉱夫達の急進主義にはそれほどの関心が集まらなかったのです。


黄金の世代 3

金は、ニューサウスウェールズとビクトリアの双方で発見されていました。


しかし、着いたばかりの人々はほとんどが、豊富な埋蔵量を誇るビクトリアの金鉱に引き寄せられていたようです。


1852年から1860年までの間に、290、000人の人々が英国及びアイルランドからビクトリアへと移住しました。


この数は、この当時オーストラリアとニュージーランドに渡った移民を合計した数の半数以上にも及んでいます。


移住を奨励する政策は続けられていたが、ほとんどの移民は、身銭を切って船賃の支払いにあてました。


(1850年代にオーストラリア方面に渡った移民の約5分の4は経済的援助を受けていなかったのです。)


自立できるだけの資力を備えたこれらの移民達は、新たな金の発見に魅せられ、気の赴くままに植民地を渡り歩きました。


黄金の世代 2

1852年5月、ロンドンに向かう1人の男は、次の様な光景を目にしました。


列車には、世界の反対側へ向かおうとする労働者でいっぱいの貨車が連結されています。


「あれは向こうに行ったら住むことになる、まあ家の様なものさ。」


・・・と、たくましい手をした機械工が、たくさんの人でごった返すプラットフォームで、たる木形の張り出し窓のついた、真新しい駅舎を見上げてもう1人の男に言いました。


ニューカッスルからも、ロンドンからも、あらゆる階層、あらゆる年令の人々が、船に乗り込もうと押しかけて来ていました。


肉体労働には不慣れな人々でさえも、簡単に財産が手に入るという期待に目がくらみ、オーストラリアに引き寄せられていました。


小説家のチャールズ・ディケンズは、船会社の事務所で「押しあい、へしあい」している群集の模様を描写しました。


多勢の銀行員、商店の若者、輸出入品管制官、駆け出しの出納係り達が、一体どこへ行くつもりか、何をするつもりなのかもわからないままどっと押し寄せ、何とかして移民船に乗り込める様、抜け目のない船舶業者に便宜を図ってもらおうとしました。


これらの移民船はチーク製の船で、底板には銅が使われ、留め金は2重構造を持っていました。


進む速度も速く、また船医も乗り込んでいました。


黄金の世代

金が発見されたことにより、英国とオーストラリアはこれまでになく緊密な関係を持ち始めていました。


オーストラリア同様英国も、19世紀の前半には社会と経済が急激な変化を経験します。


オーストラリア社会は、物、金、人の交流を通じて英国社会と連動する様になっていきました。


英国資本によってオーストラリア経済が発展を遂げた様に、何万人もの英国人がオーストラリアに移住したことで、あらゆる場所の経済は活況を呈し、英国企業が進出するための足がかりもできたのです。


1850年代に突入する頃までには、英国経済も産業革命初期の社会的、経済的混乱期を乗り越えて、落ち着きを取り戻しつつありました。


しかし商業は、ほとんどの地域で依然として不振状態に陥っていました。


少しでも生活を向上させたいと願う人々に与えられた機会にも自ずと限界があり、その見通しも暗かったのです。


マックレスフィールド、ランカシャーの町に住む仕立屋は、メルボルンにいる兄弟に、


「商売は上がったりで、給料もひどいものです。


家族に良い暮らしを送らせるチャンスもほとんどありません。」と手紙を書き送っています。


植民地で大量の金が発見されたことがきっかけとなり、こうした人々は、ぞくぞくと地球の反対側を目指して行きました。


この時初めて、英国領内での移住先としてオーストラリアとカナダの地位が逆転したのです。


1850年代及び1860年代初期にかけてオーストラリアに向かった英国移民の人数は、アメリカに渡った全移民の合計人数の、半数近くにまで迫る勢いでした。


ビクトリアの植民地で大金鉱脈が発見されたというニュースは、1851年から1852年にかけてイングランドにまで伝えられました。

移民の生活

1840年代のオーストラリアには、宗教の世界にも派閥主義がはびこり、また様々な宗教論争がおこり、混沌とした状況に陥っていました。


長老派教会の指導者J・D・ラングは、急進的な共和主義者でオーストラリアの自由独立を主張しました。


ラングはまた、アイルランドローマカトリックに対する憎しみをむき出しにした偏屈者でもありました。


ラングにとって、アイルランド移民の「真のねらい」は、以下のものでした。

アイルランド人のねらいは、オーストラリアに住む、身分の卑しいイングランド人、スコットランド人のプロテスタントに、ローマカトリックの女性を嫁がせることに尽きます。


異教徒雑婚とう、狡猜で策謀に満ちた手段を用い、オーストラリアをカトリック教化しようというものでした。


1840年代後半を迎えた植民地社会では、新風として吹き込まれた創造的姿勢、価値観同様、こうした古くさい偏見が根強く残っていたのです。

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